
絵画とは何か1

「描く」とは?
我々が石膏デッサンを習ったときにわかることは、遠近法というシステムが一般化された技術であるならば、数値さえあれば正確に描けるという理屈だ。このとき、むしろ視覚は必要じゃない。実際にルネサンスのころ、視覚があると誤差が出るから、数値だけで描くべきだという主張もあった。
石膏デッサンでは「見たとおりに描け」ということを習うが、見たとおり描くとじつはうまく描けない。では何をするのか? その場合、先輩が描いた“うまい絵”を真似して描くしかない。また、「黒白のグラデーション20階調を木炭だけで描け」「100階調描け」と言われる。これはできるわけがない。ところがうまい人は、技術的に絶対できないはずなのにできてしまう。ただしその絵をよく見ると明暗ではなく、黒いところはゴシゴシ擦る。薄いところはフニャッとしている。これは要するに違う情報を入れているわけだ。「描く」ということを敢えて説明すれば、表向きの技術であるアルゴリズム以外のアルゴリズムも同時に入っていて、見る側に、本来は表現できない部分を、ノイズと思われている部分から拾い出させる技術なのかもしれない。
絵画を技法で分類する
絵画を考えるとき、画像、図像など抽象的な概念で分けることもできるが、技術的側面から分けることもできる。例えば油絵、水彩など。それらは実際には全然違うもので、フレスコ画とモザイクの絵では、対象の認知の仕方もまったく変わってくる。
油絵を例にすると、日本では、高橋由一が江戸時代の終わりに油絵を最初に描いたのだが、そのときに市販の油絵の具があるわけないので、由一が自分で作った絵の具だった。そこで描かれた絵はものすごく生々しかった。これについてある批評家は、「日本の古い感性が邪魔をして、西洋の新しい技法を消化できなかった」と言った。つまり、ディテールを細かく描いたせいで遠近法が乱れているという指摘だったのだが、これは本来の油絵の具が持っている技法上の分裂なのだ。
油絵の優れている点は、空間描写と素材のテクスチャーを多様に描き分けられることだと言われた。ところが、テクスチャーを描くと奥行きはなくなる。実物そのものとなり、スケール感がなくなるのだ。実際に当時の日本の油絵は、ヨーロッパで油絵が出てきたころのヤン・ファン・エイクや、ハンス・ホルバインなど北方ルネサンスとよく似ていた。油絵を発明したヤン・ファン・エイクのころはどうだったかというと、ひとつはフレスコ画。もうひとつはイコンのような、テンペラ画的なものだった。両者はまったく技法も違い、画像も違う。
当時、キリスト教的な概念から、どのメディウムが画像としてもっとも優れているのかという議論があった。その結果ステンドグラスが優れていると言われた。なぜなら、ステンドグラスは反射光ではなく直接光だったからだ。神の像は一種の光で、神は見るものでなく、神によって見せられているということを知ることによって像があると設定された。それでヤン・ファン・エイクは、ステンドグラスを真似ようと油絵を思いついた。ところが次の100年間で、絵の具の使い方はまったく逆になる。透明から不透明な塗りになったのだ。それはなぜか? この当時商品として高かったのが実はタペストリーだった。そしてタペストリーと同じように油絵の具を使おうということになったのだ。実際、油絵の具を画面上で折り重ねて混ぜていく技法が生まれた。
つまり、高橋由一に現れていた矛盾というのは、もとを正せば、油絵の具の矛盾というより、ステンドグラスという技法と、タペストリーという技法の矛盾ということだったのだと言えるだろう。
そう考えると、様々な技法、つまり複数のアルゴリズムが複数のアプリケーションで、辻褄あわせをしているような状況を、我々は油絵だとか、絵画と言っているのだろう。しかし、実際にはその中には様々な技法が入っている。絵画とは、そういう技術の絡み合いなのである。
絵を描くときになにが起こっているのか?
絵を描くとき、子供は、平気でドバッと絵の具を付けてびっくりしたり、「何か起こったな」と感じたりする。そしてどうしていいかわからなくなる。簡単に言えばショックが起こり、この最初の感じを活かしたままに絵を作る。現代美術も基本的には、最初にチューブから絵の具を出した驚きを描いていると思う。
ロボットはどう感じるのだろうか? 子供の場合は、この驚きから「なんとかしなくちゃいけない」となり、秩序を作らなくてはいけないと考える。しかし、予めどういった秩序を作ればいいのかがわかっていて調整するわけではない。 おそらくロボットが絵を描く場合は、ここをどうするのかという問題になるのだと思う。「最初にある直線を引く」「こういうものをやりたい」というモデルがあり、それから外れた場合に直すということになる。しかし、私が絵を描いている場合でも、どう調整していいかという結論は出ているわけではない。そして、それを楽しんでいる。
絵の具をギュッと出して、本来と違う使い方に驚く。この部分にこそ人間の認識のアルゴリズムやシェーマがある。同じシェーマでありながら、それが破壊される感じがないといけないのだと思う。むしろ機械が止まる瞬間のようなことかも知れない。
私自身の場合、描くよりも見ている時間の方が長い。自分の絵を見てるというか、絵の具をつけて凄いと思い、どうしようかと1ヶ月ぐらい考えたりもする。つまり一種の仮説として言いたいことは、「描く」という行為で重要なのは、描く前に、スムーズに描くシステムがストップする瞬間(フリーズした瞬間)があり、そこから組立て直してリセットされ、改めて組立直すというプロセスだ。ロボットに置きかえるのは大変だが、人間が「描く」ときにはよく起こっていることだと思う。
「描く」「見る」をいかに教えるか
私の演習やワークショップでは、様々な展覧会を見に行かせ、その略図を書かせるという課題を出している。そしてそれを「3秒で書け」とかいう無茶なことをやっている。あるいは「ピカソの絵を描け」「マチスの絵を描け」と、“絵の似顔絵”を書かせることもある。これは、様々な絵画の技法や様式があるということを、貧弱なボキャブラリーしか持っていない状態で教える方法として有意義だ。つまり、単一様式で複数の様式を分類させるわけだから、これは非常に面白い。
すると、ピカソの絵はうまく描けるけど、マチスの絵はうまく描けないというようなことが起こってくる。ピカソの色は、大体明暗対比で色が決まっていて、色相対比はない。つまり白黒にしても絵の構造は変わらない。ところが、マチスの絵は印象が全然変わる。マチスの似顔絵が描けない。これは、人に説明しているときに、見えてないということだと思う。私は、自分が再現できることが、その人の見方を規制していると思っている。
子供たちは直観的に描くので反則ワザを使う。その方がいい。別に形象を真似しようとか模写しようとかしないのだ。するとマチスの絵は、色がバシバシとあって形もデッサンもしてない。つまりマチスもピカソも似ているところはむしろ表現しないで、違いだけを表現する。子供は、印象の捉え方によって、プリミティブだけど手法を切り替えることができる点が興味深い。やはり、中学生くらいまでの子供は、ノリで新しいゲームを覚える大人より全然速いし、反応がいい。いろいろな場合があるのだが、ワークショップの課題には、抽象的なものを入れておいた方が、教える方も難しいけれど、思わぬものが出てきて意義があると思う。
例えば、「ガムテープで実物大の彫刻を作る」。こういうことを言っても、子供達は最初はキョトンとしている。こちらも「最近手で触ったもので一番感動したものを作る」とか促す。すると、「妹の頭」を作ってみたり、納豆を一粒ずつのりで作ったりする。ガムテープは簡単で、のりがついているから、同じガムテープだけど全然違う形になる。そして、重要なことは、安定した素材の使い方が無い。そういう状況で、子供は、誰かの作った納豆を見て影響をうけ、お茶漬けの彫刻を作ったりとか、だんだんヘンなことになっていく。
このワークショップでは、実物大という概念をどう定義するのかということが実は作業として問われている。最初に「実物大」という概念を定義したら面白くならない。子供との関係で大事なのは、「なんでもいいからやれ」という課題の出し方で、そうすると子供なりに定義ができていく。最初にこの初期設定ができるかどうか? それこそが結局芸術の問題なのだと私は思う。ルールのある中に入って技術を学ぶことはできるが、本来、自分でルールを決定することはなかなかできない。
メディウム・スペシフィックという言葉があるが、近代絵画は、みなメディウムの特殊性、素材自身を生かすために作られてきているということを主張している。しかし、それだけでは嘘で、実際にはメタレベルがないとメディウムは生きない。ただメタレベルを考えると悩んでしまうから、素材で直感を与え概念的な課題を与える。この場合、それでガムテープと実物大という抽象概念の組み合わせを出してみた。
話がそれるが、素材だけ規定してあって、ガムテープしか使えないロボットがあったらすごいと思う。ガムテープを使って対象を模写するというアルゴリズムをいっぱいロボットに用意させておいて、どれを使うかはロボットが自分で考える。コップはツルツルじゃなくちゃいけないとか、判断して形にする。実際に、ちゃんと水が漏れないコップをガムテープで作った子供もいた。ロボットに関しては、自分の関心と共に、いろいろな可能性を感じる。
(2005年11月30日「第1回アート例会」)







