「見ること描くことについて」試案
藤幡正樹
東京藝術大学教授

「見る」という行為

描くためには、紙や鉛筆などの道具が必要である。まずそれを探してこなくてはならない。かなり大きなエネルギーがいるはずだ。道具が揃ったとしても、描くためのイメージがなくてはならない。目の前にある適当な物を描くにしろ、それをどう描くのかプランが必要だ。そのためには普段からいろいろなものを見ている必要がある。それも進んだ形では描くことを前提に見ている必要があるだろう。その「見る」という行為について考えたのが以下の図である。

2つの目がリンゴを見ている。網膜の上に像を結んだリンゴの映像は、色彩や質感をトリガーとして、2枚の2次元画像をもとにした視差による立体視情報を作り出すが、それは同時により大きな空間との関係性の中にある。さらに身体は常に動いているので、時間軸上でバッファーされた過去と現在との間の差分情報も作り出されることで、動きの情報を作り出しているはずだ。これら4つのモジュール、「色彩」「形態」「空間」「動き」相互の関係性がまず問題となるのではないだろうか? これら相互の間にあるであろう齟齬、情報の欠落が、視覚的な刺激としてまず了解されるのではないだろうか? この刺激が対象の理解を導きだすモチベーションになるはずだ。

この刺激が脳内の検索エンジンをイグニションする。何かこれに似た欠落を持ったバランスの情報アイテムが列挙されるに違いない。そうしたアイテムが記憶の中から選び出されると、それらのアイテムに共通する「色彩」「形態」「空間」「動き」という4つのモジュールデータが作り出される。

図1 見える違和感

すると、視覚装置が集めた4種の情報モジュールと記憶の中から集め出された4種の情報モジュールが、比較される。比較の結果が思わしくないとそれは次の行動をキックし、対象に近づいたり、対象に触れたりという行為を人間に起こさせるのだ。このループは、対象を理解したと思うまで、あるいは対象理解へのモチベーションが失せるまで続くことになるだろう。またその対象がそれ以前の記憶にないものであれば、記憶の作業場に受け渡されることになる。

図2 思い出す

しかし、現実の「見る」行為においては、どのように重要ではない対象を見いだして、それを見捨てたり、見過ごしたりすることの方が実は重要なことなのではないだろうか。そのためには、それ以上探求する必要のない対象であることを、対象の少ない情報から決定しなくてはならない。おそらくそれは長い経験と知識を背景として、対象の少ない特異点をとりあげることで処理しているに違いない。対象の本質をメタレベルで急速に理解してしまう、こうした傾向は、知識豊かで、知性的である人間ほど強いのではないだろうか。メタレベルというのは、例えば機能としてのコップに注目すれば、コップのデザインは下位レベルのディティールになる。コップは水を飲むことさえできれば、それはコップであるが、注意深く観察すると世の中には無限にデザインの異なったコップが存在する。例えば、機械による画像処理を通して、対象をコップであると理解するということと、そのコップのデザインが意図している目的や内容を理解することには大きな隔たりがある。つまり、「見る」という行為は、対象のメタレベルの理解のための行為、と同時にその下位レベルの理解を完了させる行為とがモチベーションの深さに従って同居していることになる。

これが「描く」ためのもとになる「イメージ」を作り出すためのリソースである。

図3 比較する

「描く」という行為

「描く」という行為は、一般に考えられている以上に複雑である。まず「イメージ」があるとしても、それを身体の外に出すための紙や鉛筆などの媒体が必要である。しかし、イメージと紙や鉛筆の間には、当然のことながら非物質と物質という大きな隔たりがある。この隙間を埋める行為が描くという行為なのである。すると、まず「イメージ」についての大まかな分析が必要だ。それはどんな形のどんな色彩なのか、対象を要素に分解する能力が必要だ。もちろんそれと同時に画材への理解と経験が必要になる。どのように鉛筆を紙に擦り付ければいいのか、どのように絵の具を扱えば思ったような色彩が得られるのか、それらの道具をいったいどういった順序で扱えばいいのかについて知る必要があるだろう。しかし、これらの行為のほとんどすべてのプロセスが言語化されていない。であるからこそ訓練が必要なのである。馴れること、習うことが美術にとっての唯一の学習方法でしかないとすると、このもっとも古典的で豊かな表現技法がこれまで残されてきたことはひとつの奇跡と言ってもいいかもしれない。その習得に代え難い価値が絵画には、あるということだ。

現実にモチーフとしてのリンゴが存在し、それを描いている時には、この図は当然もっと複雑になる。モチーフとしておかれたリンゴには無限のディティールがあるのだが、「見る」段階では、それをあるレベルでそれを切り捨てなくてはならない。そうでなくては描こうとするリンゴをイメージすることができないであろう。しかし、目の前にリンゴがモチーフとしてあるという情報だけで絵を描くには事足りるという、その逆の考え方もまたあり得るだろう。目の前のリンゴそのものにしか見えないリンゴを描くというアプローチから、目の前にあるのはリンゴであるという回答を言葉ではなく絵にするというアプローチまでの幅の中に絵を描くという行為が位置していると考えることができる。しかし、そのどちらにしても、目の前のリンゴと描かれつつあるリンゴは、描き手にとって比較の対象になってしまう。それぞれが同じであるという判断がなされた時点ではじめて描画行為は終わりをつげるのではないか。あるいは、それを見た第三者の賛同を得ることでその描画行為は完成されるのかもしれない。

図4 リンゴを描く

(「Crest21Artシンポジウム『描く』を科学する」2006年1月19日)