プロジェクトの目的と方向性
藤幡正樹
東京藝術大学教授

表現とデジタルメディア

デジタルメディア技術の浸透は、当然のことながら芸術の分野にも大きな影響を与えつつある。さまざまな通信手段の拡張は、日常的なコミュニケーションのスタイルを急激に変化させているが、それにみあったコミュニケーション手法の開発が行われているとは思えない。例えば、グラフィックデザインの現場では、旧来の手法をデジタル技術の枠組みに持ち込むのが精一杯で、極端なことを言えば、新しい機械の使い方を覚えるのがやっとというのが現実である。この現実は、技術の進化に表現者が従属していると言っていいだろう。

歴史的には、表現の進化の背景に、それに関連する技術の進化が控えていることが多々ある。例えば、現在ポピュラーに使われているピアノ(ピアノ・フォルテ)が生まれてくる背景には、それ以前に使われていたクラヴィコードやハープシコードよりも大きな音量が演奏に求められたことがある。しかし、その発音の機構から、ピアノ・フォルテの演奏には、それ以前とは異なった演奏技法が、演奏者や作曲家に必要とされた。そうした背景の中で、もっとも前向きにピアノ・フォルテを使いこなしていったのが、かのモーツアルトなのである。

ひるがえって、現在のデジタルメディア技術を、まるでモーツアルトがピアノ・フォルテを好んだように使うためには、どのような環境を揃える必要があるのだろうか? 表現にとって技術が制約になるのではなく、技術が表現の可能性を広げ、これまでにはない表現の地平を開拓することができるようであって欲しいのである。しかしながら、問題はそれほど単純ではない。デジタルの技術によってもたらされつつあるメディア環境の変革は、それ以前のアナログ技術の進化による表現の拡張とは、決定的に異なった意味が含まれている。

これまでの表現では、物質との直接的な関わりが重視されてきた。彫刻で作品を作ることは、直接的に石や木材を扱うことを意味し、絵画を描くことは絵の具や筆や布を扱うことを意味してきた。写真でさえもネガフィルムや印画紙という物質を扱うことでは変わりがない。しかし、デジタルメディアでの作品制作では、すべてがコンピュータを介在させた形になり、直接的な物質のやりとりがそこには無くなってしまう。例えば、ワードプロセッサーで文章を〈書く〉ことは、現実に紙の上に文字を書いているわけではなく、文字の並びをキーボードで指定しているに過ぎないと考えることができる。これはいわば文書の清書機械であり、これを文書創造のための機械と読んでいいのだろうか? この道具は完成されるべき文章を、コンピュータ上でシミュレーションするためのシミュレータなのである。直接的に美術に関係する分野では、フォトショップやイラストレータといったアプリケーションが、すでにデファクトスタンダードになっているが、これらもまた画像生成のシミュレータであり、アプリケーション・ソフトウエアはその生成プロセスや編集のプロセスを管理するためのツールなのである。それは、コンピュータのディスプレイ上にある限り、光の点滅によって、かろうじて現実の世界と関係を持っているデータに過ぎない。

ではいったい、デジタルメディア表現における優位性とはいったいなんだろうか? その部分が明らかにされない限り、デジタルメディア技術は芸術分野に、これまでの芸術表現のシミュレータ以上の役割を果たすことはないだろう。

プロジェクトの推進

本研究プロジェクト「デジタルメディアを基盤とした21世紀の芸術創造」では、特に美術の分野におけるデジタルメディアの可能性を、表層的な利便性ではなく、より根源的な技術と表現の問題としてとらえた上で、まず絵画に着目した。

絵画は、コンピュータが得意とする画像処理とは異なった種類の視覚情報技術である。画像処理技術は画像データを加工編集する技術であるが、画像の意味について扱う技術ではない。絵画について考えることは、いわば「図像処理」について考えることであり、描かれた線や形や色を要素とした意味の創造である。描くことは人類創世以来連綿と続く表現行為であり、現代までの絵画史は、絵画によって語り継がれてきた人間が生産した意味の蓄積である。

そこで第1段階として、情報工学、なかでも画像処理情報技術を生かして、1)表現媒体の研究、2)描画行為の再現、さらに、3)表現行為の理解へ至ることを目標とし、まずそれぞれの分野での実現可能なツールを整備し、それらのツール(シミュレータ)を芸術家や作家とのコラボレーションを通して、その再現性の精度の向上をすすめている。現在は特に油絵技法に着目し、油絵の具のコンピュータ上での再現とロボットによる油絵描画行為のシミュレーションを行っており、その成果が実を結びつつある。

これらの研究プロセスにおいては、絵画の歴史と技法以外の方法でも絵画の意味を掘り下げる必要があり、絵画というよりも人間の描画行為そのものをより深く理解する必要性があることがわかってきた。歴史的に、「まるで写真のような絵」を「写実的」と称して、高位に置き、それをより高度な人間の行為、能力と考えてきた節がある。しかし、コンピュータによる情報処理の立場から考えると、こうした「写実的」な画像の生成は非常に簡単であるのに対して、その反対に、絵画のための訓練を経ていない人間が描くような写実的ではない絵画の生成は、コンピュータにとっては非常に難しいことは自明である。実は、人間の発達にとって描画行為が持つより重要な作用は、写実的に対象を描く能力ではなく、対象の特徴をとらえて、対象を抽象化しシンボルを作り出すことなのである。

もちろん、プロフェッショナルな画家にとっても、対象の特徴を上手にとらえることは必須である。だがしかし、そのために対象からあらゆる既成の価値観を剥離して、そこに置かれた対象そのものを生な目で見直すことが、歴史を引きずっているプロフェッショナルとしては、求められてきた。歴史的な視点から見れば、「写真のような絵」は、ひとつの通過点であったと考えることができるだろう。その意味において、画家はあらためて幼児のように対象を見ることができなくてはならないのである。

ほぼすべての人間は、幼児期に描くという行為を体験しており、言語と並んで非常に重要なシンボル化獲得のプロセスを助けていると考えられている。乳幼児の発達段階における描画の意義についての研究は、その発語についての研究に比べると格段に少なく、シンボルの獲得に関わる描画の意義について、認知科学、認知心理、発達心理、神経心理学、脳科学等の分野とのコラボレーションの必要性も出てきた。また、逆に「描画」という行為に注目することで、各分野が抱えている問題点を鮮やかに浮き彫りにするための実験を創造することも可能であると思われる。いわば、描画作用を軸にした人間探求のための新領域である。

プロジェクトの今後

描画行為にはそれを支える画材が不可欠であり、紙と鉛筆などに始まる媒体なくしては行為が完結しない。言い換えると描画行為は、メディア(媒体と道具)の制約を受けているわけであり、その制約があってこそ、これまでの絵画史上のバトルに意味がある。つまり、デジタルメディア技術が芸術分野に影響を与えることがあるとすれば、それは過去の技法の簡便化やコストダウンではないはずであり、新たな、そして意味のある制約条件を提示したものでなくてはならない。本プロジェクトでは、それを検証するためのツールの制作を現在行っている段階であり、今回、第1回目のシンポジウムを通して外部の芸術家、作家、研究者との交流の接点を広げ、ツールの利用を通して表現の可能性についての議論を広げてゆく予定である。

今後は、現在対象としている「描くという行為」ばかりではなく、写真等の画像情報や映像情報ついても研究する必要がある。例えば写真は、写実的な絵画の代替物として認知され、流通されてきたかのように考えられているが、写真は絵画の代替物ではない。自動的に現実の視覚的な複製物を作り出すことのできる写真の意義は、その写実性にあるのではなく、そこでシャッターを切った主体のあり方にあるのであり、読み取られるべきはその画像が作られた理由である。写真をそのように利用することで、どのような効果があるのかについて、私たちはすでに自覚的であると考えてもいいだろう。つまり、写真が絵画のように何ものかをシンボライズしているときには、気をつけなくてはならないのだ。また、映画などの映像が現実にこれだけ氾濫しているにもかかわらず、映像情報の理解のプロセス、また同時に創造のプロセスには、いまだによくわからないことが多い。その制作の過程において、問題をどのようにすれば解決できるかは、作り手の経験則として留まっているのが現状である。写真と映画などの動画像に共通する問題は、現実を使って現実ではない情報を生産することであり、それは幼児の「ごっこ遊び」につながる「ふり」であり、つまりは「演じる」ことにつながるものである。これもまた、「描く」と同様に、人間にとってもっとも本質的な行為のひとつであり、「描くこと」「演じること」を通して、はじめてデジタルメディアを通した21世紀型の芸術の外郭が見えることになるのではないだろうか。

デジタルメディアの芸術分野への影響、特に美術の分野における相関関係について、「描く」という人間の行為を中心にして読み解き、技術が表現に対して果たすべき役割についてのさまざまな示唆を導きだすことで、芸術と科学技術の融合点に的確なブレークスルーを見いだすことができると考えられる。

(「Crest21Artシンポジウム 『描く』を科学する」2006年1月19日)