
子どもの描画行為研究の可能性

子どもの遊びとコミュニケーション
藤幡私たちの研究は、「人はなぜ絵を描くのか」をもっと知りたいというのが大きな研究の枠組で、一つはセルフリレインフォースメント(自己教化)、つまり自分で自己解決をしてくような、いわゆる大人の視点から見た描画です。描いて、絵が上手くなることが目的だったり、対象をもっとよく見なさいだとかいわれて、そうして世界が広がっていく。小学校からはじまる図工の時間のカリキュラムも、一般的にはその延長線で作られていますから、最後には、プロの画家になるところが頂点として作られていたのですね。
そういう図式に対して、子どもの絵というのは、無償の行為なので、基本はコミュニケーションツールなのだろう、と。その部分はほとんど見捨てられていて、まあ「みんな子どもの時は絵を描くよね」みたいな話で終わってしまう。
でも、私は大人の場合も含めて「コミュニケーションツールとしての描画」に注目したいわけです。
やまだコミュニケーションツールとしての描画には、両義的なところがありますね。まず、描画自体には、楽しいから、あるいは、とにかく痕跡があるから、それに没頭するということがあります。それから、コミュニケーションという点では、突き詰めると地図のように説明するための絵やイラストレーションにつながる方向性がありますよね。「とにかく自分でやっていて楽しい」ということと「コミュニケーションである」ということは、矛盾する活動のような気がするのですが。
藤幡子どもの状況を見ていると、何かに熱中してやっていたとしても、まず最初に、「ほらお母さん、見て見て!」と言うことがありますね。子どもの場合には、コミュニケーションの関係というのは、最初はお母さんと子どもの関係ですよね。それで、例えばぐちゃぐちゃっと描いてたのに、お母さんが「それなあに?」って聞いた途端に、いきなりそれに何か意味づけしてみようとすることがある。例えば、「カタツムリ!」と言い出すみたいな。その時に頭の中で起こっていることが、私はすごく面白いと思うのです。
やまだなるほど。「遊び」でもあり「コミュニケーション」でもある状態ですね。遊びというのは、ピアジェの定義では先ほどのセルフレインフォースメントに近いですね。
子どもをよく観察しているとわかるのですが、新しいことをやるときは、子どもにとっては「遊び」ではないのですよね。例えば、ちょっと床にものを落としてみる。でも、最初にものを落とす時はやはり非常に慎重にやります。つまり、一番最初のラーニングとその後の「遊び」というのは、少し質の違う行動なんです。それでも面白いということに一度気づくと、次にはその行為自体が面白くなる。だから、幼い子どもというのは、何でも落としてみるということがありますね。
藤幡私も親から、「子どもの時に近所の家の廊下に空いていた節穴に延々と鉛筆を落とし続けてたんだよ、お前は」と言われたんですけれど(笑)。鉛筆が消えて無くなっちゃう、それだけですごく面白かったのだと思います。
ピアジェの話で言うと、要するにもの自体が持っている知性のようなものを掘り起こすということでしょうか。頭の中にだけ知性があるわけではなくて、モノとの関係性でそういうものがきちっと浮かび上がってくるものを掴まえるということでしょうね。
やまだそうですね。絵を描くことの中にも、手を動かすこと自体が楽しい、痕跡が残ること自体が面白いということがありますよね。それは芸術家にしても持っている感覚ではないかと思います。
さらに描画に関しては、先ほどおっしゃった子どものお絵かきの例のように、お母さんがちょっと覗き込んでそれを「シェアする」ことがありますね。そうすると「名付け」が始まります。その点で、関係性が一つ上位へ移るのですね。例えば、絵を描く行為に没頭するという意味ではチンパンジーも絵を描きますが、チンパンジーの場合、やはりそれ以上にはならない。モノ自体との関係性の次に、そこに他者との関係性が入ることによって、シンボルが生じるわけです。
ただし、人間の発達上、描画よりも言葉を話せる方が先です。つまり、世界を意味的に認識できる方が先なのです。描画に関しては、身体の発達やコントロールという面も含めてスキルに限界がありますからね。それから、子どもはまず、世界を相当シンボライズして認識する。イメージするわけです。だから、「描画の発達=認知発達」ではなくて、むしろ先に認知の方があるのですよね。世界の方が先に名付けられているのであって、描画に対して名付けたからといって、世界がそういうふうに見えているわけではない。
藤幡言葉で学習している時は、あらかじめ名付けられてしまったものを与えられますよね。「お母さん」とか、「リンゴ」とか。ところが描画の場合は、初期の段階では、シンボルそのものをうまく描けないけれども、子どもが「これはお母さんだ」と意識して描いていることがありますよね。まだお母さんとの間でそれがお母さんを意味するようなシンボルには至っていないのだけれど、言葉よりも自由な、名付けられないものも描ける、というようなことが起こっているかもしれないと思っています。それを、豊かさとして提示したいと思っているのです。
でも、子どもがちょうど5歳ぐらいになった時に、子どももすでにいろいろな絵を見ているので、例えばお姫様ばかり描くような時期もあるわけですね。それはもう、最初のスリリングな絵ではないわけです。記号化したお姫様が、何度も繰り返し出てくるようなことになってくると、これは明らかに言語と同じレベルで扱われていることがわかるのですが、その前段階の謎の方が、はるかに面白いなあと思っているのです。
やまだ言葉でもそうですけれど、紋切り型になってしまうとあまり面白くない。
藤幡「うまく描けていい子ね」とかいわれるようになってしまうのですよね。その前の方が面白くて、わけのわからない絵というか印を指して、「これなあに?」と聞くと「お母さんだよ」というような時期ですね。
私の子どもの場合に、まだ上手く話せない頃に描いた絵があって、ぱっと見て何だかまったくわからない絵なのですが、半年か一年ぐらい経ってから「これ、何が描いてあるの?」と聞いたら、「お母さんだよ」あるいは「犬」とか、明解に話すわけです。だから、子どもは描いてる時には非常に明らかにそうだと思って描いていたということがわかったんですよ。その話を先日知り合いにしたら、「うちの子どもも同じだ」と言っていましたね。疑わしいので、一度聞いた絵の内容を、もう一度一週間後に聞いても、ちゃんと同じ答えが返ってきたのだそうです。だから、描いた時からその子にとってはそのシンボルが何であるかということは決まっていたらしいです。
やまだ以前、やはりその「名付け」についての研究がありましたが、明らかにシンボルを意図して描いている場合と、コミュニケーションによって変わる場合と二通りありました。
傍目にはわからないけれど、子どもにとっては明らかにこれがママでこれがパパ、という。これは藤幡さんがおっしゃったケースですね。それに対して、「共同生成」と呼んでいるのですが、「これは何?」と聞かれる度に答えが変わることがあります。子どもにとってはその時は確かに特定の対象として名付けられた。けれども別の時に見たら、違うものに見えることだってあるかもしれませんね。例えば、以前はママと言って今度はパパと言ったのに、後で見た時にはリンゴが二つ並んでいると見えるかもしれない。ただし、こういう場合でもやはり、チョウチョとは言わないわけで、ある種の丸いものが、人の顔にもなればリンゴにもなる、というふうに変わっていくわけです。
藤幡そういうタイプのものもありますね。それは、僕の見ている感じでは状況主義というか、周りにいる人との会話の中で違うものにしてもかまわなくなっていくような感じがしますけれどね。
やまだでも状況次第でどうにでも変わるわけでもないんですよ。ものを描いていく時というのは、芸術家が描く時でも、ピカソじゃなくてもたぶん最初はこういうふうに描こうと思っていても……。
藤幡インクが垂れちゃったから、これ使おうかとか(笑)。
やまだそうですね。だから、生成されていくと思うのですよ。それで違うものに変換していく。変換していくプロセスが、案外重要である気がしています。3歳くらいでは、共同形成でどんどん変わっていく時期ですね。5歳になると、もう確実にシンボルを描きますね。
藤幡やはり、そのあたりの時期が一番面白いと思っています。大人でも、例えば新しい画材に興味を持った時、やはりその画材の面白さを引き出したいから、最初はただひたすらいろいろ試してみるといったことが起こるのですよね。それをどこかで教育がバイアスをかけて、せっかく強い表現力をもっていても、大人になるとそれをやめてしまうというようなことがもったいないと思うのですね。その辺の思想も私なりには研究の背後にあるのですけれど。







