OPS:油画描画シミュレータについて
齋藤 豪
東京工業大学准教授

はじめに

「描く」とは、見ること、記号化すること、手を動かすことがひとつになった複合行為であると考えられる。従って、見ているもしくは見ていた対象の持つ視覚的特徴とストロークとの間には対応関係が明らかにある。ただし写真と対象物との間に見られるような微細な点までも一致しているという対応関係よりもむしろ抽象化を伴う記号の上での対応関係が絵画には多用されている。ところで、このような関係付けにはひとつの解があるわけではない。画家の描画戦略や技法や技術というものは、関係付けの選択と実現のためにあるのではないだろうか。このような視点に立ち、「描く」行為を記録分析したいと考えた。

描画の記録にはビデオ撮影という手段がまず考えられる。しかし、個々のストローク分析をするためには、計算機上で描画を行い、それを記録した方が有用であろう。計算機の上で描画が行われれば、筆致の一つひとつにおける、溶き油と絵具の比、絵筆の動かし方、周辺との色の比などを細かく記録することができる。しかしながら、従来の計算機上での描画環境は実際の画材と比べて簡素化されすぎており、高度な描画戦略を立て、様々な技法や技術を発揮するには適していると言い難い。そのような背景から、以前より行っていた計算機上での画材のモデル化の研究を発展させ、油画描画シミュレータの研究開発を行うこととなった。

シミュレータの基本設計

図1 シミュレータの構成

実世界での描画では画材の選択から運筆に至るまで、多様な自由度が存在する。しかし現在実用化されている描画ソフトウエアでは、入力から処理に至るすべてが単純化されすぎており、表現の多様性に乏しい。しかし、現実の画材を複雑にモデル化するだけでは、闇雲に計算コストが増大し、また現実の画材の限界を越えることができない。

本シミュレータの設計方針は画材そのものをモデル化するというよりも、むしろその特性を検討してモデル化することと定め、その結果、筆致1本1本の表現力を高め、それにより画家が描画できる幅を広げることを目標とする。

そこで、油絵具の画材の特徴を概観する(図1)。まず油絵具は混合と積層によって混色が生じ、表面には艶があるという光学的特性がある。また描画表面には筆致の凹凸が残るという粘性を伴った液体であるという流体力学的な特性がある。一方筆は水彩画と比べると腰があり変形の度合は少ないが、しなる事によって多様な筆致を生み出す。

そこで本シミュレータでは、絵具の流体力学部的特性はキャンバス平面上で起こるためキャンバスモジュールが、絵具の光学的特性は光線モジュールが、筆は柄の操作に対する変形の応答性に重点を置いて筆モジュールが計算を受け持つよう設計する。さらに、計算機上での描画のメリットとして、写真などの画像をキャンバス上に絵具として転写する処理を行う版画版モジュールもあわせ、図2のように合計4つのモジュールから構成する。以下各モジュールについて説明を行う。

図2 シミュレータの構成。4つのモジュール

筆モジュール

図3 変形する3次元筆形状
図4 多様性のある圧力分布
図5 特徴的な筆致の例

本モジュールでは、運筆により生じる筆致の多様性を生み出すため、入力装置からの位置(2)、筆圧(1)、傾き(2)、ひねり(1)の6データはまず絵筆の柄の姿勢に反映され、3次元の毛の房の変形形状がその姿勢とキャンバスとの接触の関係から動的に計算される(図3)。さらにその結果から、接地面の形状、筆圧分布を図4のように逐次生成し、筆とキャンバス間での絵具の授受に多様性を生み出すことを可能としている。

また、毛管現象により内包する絵具と表層に付着しキャンバス面と接触する絵具が重層構造のテクスチャデータにより表現され、筆内部の絵具の移動が考慮されている。

これらにより生み出される筆致の特徴的な2つの例が図5である。左は少量の絵具で描いたもので、筆圧分布の偏りが、かすれ方に反映されている。右は多量の絵具で描いたもので筆致に凹凸を生じさせることに成功している。

版画版モジュール

本モジュールはカラー画像の各画素の色を絵具情報に変換してキャンバスにのせるための処理を行う。絵具の色の他にも、厚みや、オイルの比率、隠蔽力など必要な情報は画像ファイルを読み込ませることで各画素ごとに独立に設定できる。色情報からスペクトルへ変換し、それを絵具内部の散乱率、吸収率の値へ変換することで、絵具顔料の係数を決定する。この版画版の機能を用いることで、写真の1画素1画素を絵具に置き換えることが可能となる。

本モジュールによりキャンバス上にのせられた絵具は、筆により乗せた絵具と同様に、濡れた上に重ねることで混合混色することも、乾いた上に重ねることで、積層混色することも可能である。これらの混色は色を絵具に変換してから行われるため、現在描画ソフトウエアで広く用いられているレイヤー処理とは異なった絵具の混色を実現できている。

今回の展覧会では、モナリザの描画過程を追う展示の作成に活躍している。

キャンバスモジュール

図6 力学、光学特性を考慮することで生み出される効果

ここでは名をキャンバスモジュールとしているが、対象を布と限定しているわけではなく、表面の凹凸を表す高さデータを画像として用意できれば、それを描画面の初期状態とすることができる。従って木板を地とするようなことも可能である。

高さ情報は本シミュレータの表現力を高めるための重要な要素である。まず、筆との接触判定に用いられ、凹んだところよりも高いところに絵具を付きやすくしている。また、新たに付着した絵具の量により更新され、塗り重ねて描いた際の複雑な絵肌を生じさせることに役立っている(図6-a)。また高さ情報から、凹凸により生じる表面の不均一な法線方向が計算されるが、この情報は艶を表す反射計算と絵具が流れて広がる際の移動判定に用いられる。また、濡れた絵具の移流計算では表面の凹凸が均一になるように液体が移動するので、凹みに絵具がたまる効果も生み出す。

本モジュールは、濡れた絵具の移流計算も行う。濡れた絵具のキャンバス上での挙動は単純な拡散によるものから(図6-b)、重力による流れ、表面張力の影響を考慮した滴り(図6-c)まであり、これらを効率的なデータ構造と計算方法により実現することで、高解像度のキャンバス領域を提供することを可能としている。

また、乾燥処理も本モジュールが行っており、一瞬で完全に乾かすことも、全く乾燥させないことも、乾燥速度を設定して生乾きの状況を作り出すことも可能である。これは現実の油絵描画で必要となる乾燥に関する工程と比べ、計算機上での描画ならではの特長である。

また、乾燥を行うことにより油絵具に特徴的な積層が作り出されるが、その積層情報を保持するのも本モジュールである。